終 4種は大切!

 最後に人間学を学ぶ雑誌がある

 「致知」 

 雑誌の一文から抜粋


 才能を大きく育てる  井田勝通(静岡学園サッカー部監督) 

 サッカーの指導者として、自分の信じた道を歩み続け、四十年近くになります。

 その間、私が監督を務めた静岡学園高校から六十一名のプロサッカー選手が育っていってくれました。これは全国の高校でも五本の指に入る数ではないかと思います。
 私が静岡学園サッカー部の監督になったのは、昭和四十七年のことです。当時は無名の高校で、選手も集まらず、野球部員の練習するグラウンドの片隅を借りているような状態でした。どの高校からも相手にされず、試合をすることすらなかなか叶いませんでした。


 その頃の日本のサッカーは「ドイツ式」が主流でした。

 これは速いパスでボールを繋ぎ、ゴールヘ持っていくやり方です。

 しかしヨーロッパヘ一か月間の視察に行った時、頭に浮かんできたのは、日本人の体型にヨーロッパ式を当てはめてもうまくいかないのではないかという考えでした。

 そこで、かねてから憧れていたラテン式サッカーに取り組んでみようと、ゼロの状態からスタートしてみたのです。
 ラテン式サッカーはドリブルやリフティングといった個人技を中心に、ゆっくりとボールを繋いでいくのですが、これは高度なテクニックが根本にないとなせない、足技のサッカーです。私は日本人が何の意識をせずとも箸を使いこなせるのと同じように、足でボールを自由自在に扱えるようになるというレベルを目指し、猛練習に励みました。


 「人が想像を絶するくらいボールに触れ。人が十回ボールに触ったらおまえは千回触れ」。それが私の口癖でした。
 毎日、授業が終わった午後四時から八時まで練習し、翌朝は六時からスタート。家の遠い子は帰宅が深夜になるため、大変な思いをしたことと思います。
 その甲斐あって、昭和四十九年には県大会で優勝し、翌年の三重国体では県の代表監督として優勝を経験しました。
 そして、このラテン式サッカーを多くの日本人に印象付けたのが、昭和五十一年全国高校サッカー選手権決勝戦での浦和南高校との対戦でした。


 その時、我々のチームは、ダイビングヘッドや股抜きといった、当時の高校サッカーの概念を覆すような高度なプレーを次から次へと繰り出しました。

 試合を観ていた人たちは、高校生で、日本人でこんなことができるのかと驚かれたことと思います。試合が終わりに近付くにつれて観戦者が増え、あの国立競技場が高校生の試合で満席になったのは、その当時としては一度もなかったことでした。
 日本サッカー協会からは、コーチングスクールのライセンスを持っていながら、なぜマニュアルどおりにやらないのかとお叱りを受けましたが、私には一つの信念がありました。
 これは多くのスポーツに共通して言えることかもしれませんが、いまの日本サッカーにおける最大の問題は子供の時から「勝たせるためのサッカー」をやらせていることだと思います。


 一人ひとりに十分な技術が備わっていないため、技を使わせず細かいパスで繋げていくサッカーをやらせる。確かにいま目の前の試合には勝てるかもしれませんが、これでは世界に通用するようなテクニックを身につけることはできないと思います。
 私は各界の専門家にお話を伺うことがよくあるのですが、どの世界でも、人間を育てるには時間がかかります。

 野菜を促成栽培するようにはいきません。
 一度、ある彫刻家の方から「自分は千年たった時に輝きを放つ石を彫ろうとしている。おまえはたかだか十年や二十年という期間で子供たちを育てようとしている」と言われ、ショックを受けたことがありました。


 指導者の言うとおりにするのがよい子供と捉え、自分の枠にはめようとするから、型どおりの選手ばかりが育ってしまう。

 監督の思惑を超えてプレーをするようなスーパースターが現れず、世界で通用する人材が育ちにくい状況にあります。

 私は静岡学園で全国制覇をしてからもラテン式サッカーの習得に励み、本場の経験を持つセ ルジオ越後氏らと朝までサッカー談義をし、自らもたびたびブラジルヘと足を運びました。


 ただ、これに取り組んだ十三年間、県大会を突破できず、苦しんだ時期があります。「おまえのサッカーは無理だからやめろ」と批判され、一度はラテン式サッカーをやめようかと悩んだこともありました。
 しかし私は信念を貫き、地道に将来への布石を打っていこうと考えました。全国を回り、少年サッカーの指導者や子供たちにラテン式サッカーの魅力を伝え「将来はうちの高校に来てほしい」と声をかけ続けたのです。


 そうして蒔き続けた種が十三年後に実って全国ベスト8進出、平成七年には鹿児島実業との同時優勝に導くことができました。

 四年前には滋賀県の野洲高校が個人技重視のラテンサッカーで旋風を巻き起こし、全国制覇をしましたが、私か信念を持って取り組んできたサッカーを実践している指導者が他にもいたことを知り勇気を得た思いでした。
 昨今、日本でもサッカーヘの熱が高まってきていますが、将来を見据え、子供たちを大きく育てていこうとする指導者が数多く出てきてくれることを願っています。